一人旅最高!【さぁ旅に出よう 】神戸の旅行記 -楠木正成公を祀る神戸の名社「湊川神社(楠公さん)」へ参拝して来ました。

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神戸に来たついでにバイク(CT110/ハンターカブ)の機動性を活かして神戸八社巡りで厄払い! 一宮神社→二宮神社→三宮神社→四宮神社→五宮神社→七宮神社→六宮神社・八宮神社まで制覇(八宮巡り)!!→(湊川神社)へ参拝して来ました”Mr.ゼットン”です。

湊川神社(楠公さん)

所在地: 〒650-0015 兵庫県神戸市中央区多聞通3丁目1−1

電話: 078-371-0001

湊川神社は、兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目にある楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。 ウィキペディア

 

 

楠木正成

楠木正成公(大楠公)は、永仁2年(1294年)、河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村)でお生まれになりました。この地の豪族の出身だと伝えられています。

元弘元年(1331年)正成公38歳の折、鎌倉幕府を倒して天皇自らが政治をとり、よりよい国をおつくりになろうとされた後醍醐天皇のお召しにより、天皇の許に馳せ参じられました。正成公はじめ鎌倉幕府打倒に立ち上がる武士も少なくありませんでしたが、幕府軍の力はなお侮(あなど)りがたく、後醍醐天皇は捕らえられて、隠岐島(おきのしま)(島根県)に配流になります。

しかし、後醍醐天皇が配流になった後もそれに臆(おく)せず、なお戦い続けた武将が.いました。それが正成公でした。河内国の千早城では、さんざん敵を悩ます戦を続けられました。

正成公の目覚ましい戦いぶりは、諸国の武士を驚かせ、勤王軍への加勢を促しました。ふがいない幕府軍を見て、北条氏率いる幕府軍の打倒に立ち上がった武士等の蜂起が各地に相次ぎ、やがて幕府軍が敗退し、建久3年(1192年)から続いた鎌倉幕府はとうとう滅亡してしまいます。

京都に還御された後醍醐天皇は、幕府の統治を改め、理想の治国を実現しようとされました。これを「建武の中興(けんむのちゅうこう)」といいます。しかし新しい体制に、武士の中には不満を持つ者も出てきました。鎌倉幕府打倒に力を尽くした足利尊氏(あしかがたかうじ)もそのひとりで、その尊氏の謀叛によって、各地での戦乱が始まりました。

尊氏は、鎌倉幕府の北条氏の残党、北条時行(ほうじょうときゆき)が信濃で兵を挙げ鎌倉に攻め込んだのを機に鎌倉に入り、北条時行を討伐します。この反乱を「中先代(なかせんだい)の乱」といいます。そして尊氏は、そのまま鎌倉に居座り、武家の政権を復活しようとしました。朝廷は尊氏を反逆者とみなし、新田義貞に討伐を命じます。天下はふたたび戦乱の世となり、約一年間は足利と新田の戦いが続きます。

延元(えんげん)元年(1336年)、足利軍が京都を占領しますが、わずか半月ほどで正成公等の朝廷軍に破れ、尊氏等は九州に落ち延びました。

しかし九州で西国武士を集めた尊氏は、ほどなく大軍を従えて京都に向かいます。その足利軍を防ごうと朝廷方は、新田義貞と正成公に、兵庫で尊氏の大軍を迎え討つことを命じました。

同年5月23日、正成公は、決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣し、途中、桜井の駅(大阪府三島郡島本町桜井)で、御子の正行公(小楠公)に後事を託して別れ、同年5月25日(現在の暦では7月12日)、正成公は、手兵700で会下山に陣の間を置きました。主力の新田軍は和田岬に陣を敷いて足利方の海上軍に備えましたが、敵の策略のために、正成公の軍の間を分断されてしまいました。

 

この日、正成公は足利尊氏の弟、直義等の軍も合わせた大軍と16度にわたる激しい合戦を交えられますが、大軍の前には、さすがの楠木軍も善戦虚しく、味方はわずか73人にまでになってしまいます。もはやこれまでと覚悟された正成公は、弟の正季卿ら御一族と「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を誓って殉節(じゅんせつ)され、その偉大な生涯を閉じられました。

以来、この誠忠(せいちゅう)の正成公を慕う人々によって正成公の塚(お墓)は大切にされてきました。やがてお墓は豊臣秀吉検地(けんち)の際、免租地(めんそち)とされ、江戸時代には尼崎藩主青山幸利(あおやまよしとし)公によって松と梅が植えられ、五輪(ごりん)の石塔(せきとう)も建てられました。

そして元禄5年(1692年)水戸光圀公(みとみつくにこう)(義公)はそのお墓に「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑を立てられ、御墓所を立派に建立されました。この御墓所が建立なるや、さらに多くの人々が墓前にお参りし、正成公を偲びその御遺徳(ごいとく)をたたえました。

明治維新の前後には、新しい日本の国づくりを願ったたくさんの志士達が墓前に詣でつつ国事(こくじ)に奔走(ほんそう)しました。

これにより正成公景仰(けいぎょう)の気運がいよいよ高まると共に、幕末から維新にかけて正成公の御神霊(ごしんれい)を奉斎したいという国民運動が盛んになり、明治元年(1868年)、明治天皇は正成公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するようお命じになり、当時のお金で千両という大金を下されました。こうして明治2年(1869年)、御墓所・殉節地を含む7,232坪(現在7,666坪)を境内地と定められ、明治5年(1872年)5月24日、湊川神社が創建(そうけん)されたのです。

延元の戦いで奮戦し、誠忠と正義とを以て生涯を貫かれた正成公に対する景仰は積年変わることなく、現在も全国からたくさんの参拝者を迎え、湊川神社は日本有数の名社として崇敬されています。

 

社殿

現在の社殿は、戦災によって焼失したものを、昭和27年10月24日に復興新築されたもので、様式は権現造(ごんげんづくり)に似た八棟造り(はちむねづくり)とされ、鉄筋コンクリート造で建てられており、戦後の新しい神社建築様式としての代表的な建物と言われています。
本殿は三つの御扉が見え、三座に分かれ祀られています。中央の御扉の奥には主神の正成公、向かって右には正成公夫人、向かって左には御子の正行公と正成公御弟の正季卿以下御一族十六柱並びに菊池武吉卿がお祀りされています。

本殿の階下左右にある金色の獅子・狛犬(しし・こまいぬ)は平櫛田中(ひらくしでんちゅう)の作で、腹中(ふくちゅう)には「国家の隆盛・国民の幸福・世界の平和」を祈る祈願文が納められています。

拝殿天井(はいでんてんじょう)の絵は、全国著名画家の奉納になったもので、中央の「大青龍(だいせいりゅう)」は福田眉仙(ふくだびせん)の作、その右四枚の板画「運命」は、棟方志功(むなかたしこう)がニーチェのツァラトウストラに暗示を受けて創造した作品。また拝殿両側の獅子・狛犬の壁画は、これも棟方志功の傑作で、「降魔・伏邪(ごうま・ふくじゃ)」の賛は徳富蘇峰(とくとみそほう)の筆です。

 

 

旅をすること・・・人と出会うこと・・・
歴史を知ること・・・は
その後自分自身に必ずおとずれる
正しい選択の為の訓練です。

美しいモノをより美しく観る為に・・・
敬愛する人をより尊敬できるように・・・
大切な時間をより大切にすごす為に・・・

そして人生をより感動できるように・・・

人は旅に出ます。

【 Life On The Road (ライフ オン ザ ロード)】

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