コンチワ!コンチワ!コンチワ!
明日香村の日本遺産古墳「天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)」を見に行ってきました”Mr.ゼットン”です。

明日香村に通うことになってフッと呼ばれた気持ちになったので訪れました。

野口王墓

所在地: 〒634-0145 奈良県高市郡明日香村野口

 

野口王墓は、奈良県高市郡明日香村にある古墳。形状は八角墳。古墳時代終末期の古墳である。 宮内庁により「檜隈大内陵」として第40代天武天皇・第41代持統天皇の陵に治定されている。『日本書紀』には「大内陵」と記される

天武・持統天皇について

天武天皇で有名なものは日本最大の内乱といわれる壬申の乱です。天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟であった大海人皇子が戦いを挑みました。その結果、大海人皇子が勝利し天皇として即位します。この戦いを支え続けたのが後の持統天皇なのです。

日本最古の歴史書とされる古事記ですが、天武天皇の命により稗田阿礼が暗唱していた内容を太安萬侶が編纂。三巻にまとめた後、献上された書物です(諸説有)。既に原本は無いのですが、真福寺(愛知県名古屋市中区大須の真言宗智山派別格本山。現大須観音)において僧・賢瑜によって1371年から翌年にかけて写された写本が最古とされ、国宝に指定されています。

三重県の伊勢神宮で20年に一度行われる式年遷宮ですが、これは天武天皇のご発意であり、第一回目は持統天皇によって行われました。西暦690年(持統天皇4年)のことです。これが現在まで続いているのです。

天武天皇は中央集権国家の確立に尽力し、その支えとして持統天皇がいたとされています。持統天皇は天武天皇亡き後、藤原京の造営を行っています。

なぜ明日香に陵があるのか

奈良県橿原市にあった藤原京は690年(持統天皇4年)に造営が開始され、わずか4年後に飛鳥浄御原宮から遷都したと資料に残されています。ところで最近の研究によると天武天皇の時代である676年に建設は始まっていたとされますが、いずれにしましても最初に住まわれたのは持統天皇なのです。

陵の場所ですが藤原宮の南方に位置し、さらには中軸線上となっています(故岸俊男・京都大学名誉教授による指摘)。中軸線上という重要な場所を選んだということは、とても深い意味があったことは間違いありません。

この地に深い意味を持たせているであろう古代の人々に、思いを馳せてみて下さい。

明日香村の古墳「檜隈大内陵(天武・持統天皇陵)」で知る深い愛と絆

野口王墓は奈良県明日香村の有名観光地として、日本の古代を巡る旅では外せない場所です。中でも天皇がご夫婦で合葬されたこの場所は、単に歴史の旅だけではありません。

天武天皇は深く妻を信頼し、持統天皇は夫を支え、夫亡き後は自ら治世を行い、日本の歴史に大きな役割を果たしました。

日本遺産である見晴らしのよい八角墳の天武・持統天皇陵(檜隈大内陵)は、深いご夫婦の愛と絆を後世に伝える場所と言えるのです。

 

大好きな明日香には古墳が沢山って、その中で、興味があるのが「天武・持統天皇陵」(檜隈大内陵)です。
墳形が当時の天皇家に特有の八角形の五段築造というのもありますが、、天武天皇の棺と、持統天皇の骨壺らしき容器があったことなど、天武陵に皇后であった持統帝が火葬の上、合葬されたとする『続日本紀』の記述に合うなど確定の材料は多い。調査が許されない天皇陵としては異例の事だといいます。

合葬墳であるということも珍しいです。
歴史の深さと重みを感じ、陵の周りを歩いて散策していました。

 

この後、車で走って30分のところいある「三輪神宮」に行く予定がナビをセットしたにもかかわらず、なぜだかどこをどー走ったのか気がついたときには西名阪自動車道の高速の乗り口でしたw

 

 

旅をすること・・・人と出会うこと・・・
歴史を知ること・・・は
その後自分自身に必ずおとずれる
正しい選択の為の訓練です。

美しいモノをより美しく観る為に・・・
敬愛する人をより尊敬できるように・・・
大切な時間をより大切にすごす為に・・・

そして人生をより感動できるように・・・

人は旅に出ます。

【 Life On The Road (ライフ オン ザ ロード)】