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豊臣秀長の居城として名を馳せた!「郡山城跡」行ってきました”Mr.ゼットン”です。

郡山城跡

所在地: 〒639-1011 奈良県大和郡山市城内町

設立者: 筒井順慶

大和・郡山城(こおりやまじょう)は、輪郭式平山城ですが、ずっと前の奈良時代には薬園になっていたとされます。
秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵の南端にあり、別名は雁陣之城と言います。
1162年に郡山衆が雁陣の城を築いたと言うのが初見となります。ウィキペディア

 

郡山城は、奈良県大和郡山市にあった日本の城。豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。 ウィキペディア
1506年夏、赤沢朝経が大和に侵攻した際には、宝来衆、西京衆、生馬衆、郡山衆らが「西脇衆」と言う集団となり郡山城にて籠城しています。
8月24日に赤沢朝経は数千の兵にて包囲して、宝来九郎などを討ち取ったとあり、郡山城は落城しました。

その後、郡山衆は、筒井城主・筒井順慶に属したり、越智氏に転じたりしますが、1559年に信貴山城主・松永久秀が侵入すると、郡山城主・郡山辰巳は松永久秀に協力して、筒井家から離反しました。

1568年、筒井城の戦いで松永久秀が筒井城を落とすと、郡山城は福住中定城と共に筒井順慶の拠点となります。

1570年3月~1571年8月まで、松永久秀と松永久通の親子は四方に砦を築いて郡山城を攻撃しました。

その後、筒井順慶は松永久秀と和議を結び、また足利義昭を擁立して上洛した織田信長の援助を得て、大和守護に任ぜらます。

松永久秀が織田家に謀反を起こすと、信貴山城の戦いにも筒井順慶は参じて戦功を挙げ、ついに1578年には大和を平定しました。

1580年には、織田信長より「本城以外の破却」を命じられたため、郡山辰巳を殺害すると、筒井順慶は本拠地は筒井城から大和郡山城に移して大改修しました。
大和限定とは言え、一国一城令を最初に考えたのは織田信長と言えるでしょう。
恐らくは、もう大和では戦が起きない平和な国になったと言うのをアピールする狙いがあったとされていますが、筒井順慶や各城主の重臣らはいい迷惑だったことでしょう。

1581年からは明智光秀が普請目付として郡山城にて改修を指揮していますので、大和争乱の時代を終わらせたのは「織田家」であると示したかったとも考えられます。

1583年4月には望楼型3重の天守が完成していますが、1584年に筒井順慶が死去すると、養子の筒井定次は豊臣秀吉の命により、伊賀上野城へ転封となりました。

この時、望楼型3重の天守は伊賀・上野城に移築されたと言われています。

その後、大和郡山城には1585年に豊臣秀長が、大和国・和泉国・紀伊国3ヵ国100万石の領主として入りました。

そして、本丸、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪など、100万石に相応しい城に改修され、5重6階または5重5階の2代目望楼型天守も完成したと言われています。

その豊臣秀長の天守は、建築学的には否定されてきましたが、2014年の発掘調査で天守台に礎石があったことが分かり、存在がほぼ確実となっています。

そのため、私が訪問した2016年の時点では、天守は工事中で立入禁止となっていました。

1591年に豊臣秀長が死去すると、養子・豊臣秀保が郡山城主となりますが、1595年に急死したため、大和大納言家は断絶し100万石の時代も終わりました。

その後、五奉行の一人である増田長盛が22万3千石で郡山城に入り、堀と土塁で城下町を囲む壮大な「惣構え」となりました。

関ヶ原の戦いで、増田長盛が高野山に追放されると、郡山城の建物は伏見城に移築されています。
その後は、奈良奉行所の管轄下となり、大久保長安が在番しました。

 

 

 

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【 Life On The Road 】