奈良公園や東大寺、薬師寺などと並ぶ奈良の代表的観光スポットとして忘れてはいけないお寺といえば「唐招提寺」です

このお寺は「世界遺産」に指定されていることで有名なほか、奈良のお寺の中でもとりわけ美しい境内を持つことで知られており、入り口にある「南大門」から真っすぐと見渡すことができる「金堂(こんどう)」は、修学旅行生から外国人観光客まで、あらゆる観光客の心を打つ実に厳めしく、一方では華やかな姿を見せてくれます。

そんな美しい唐招提寺。その名前は「唐」という中国の古代国家の名前と、「招(まねく)」という漢字が使われており、何やら想像をかきたてるお名前をしています。

今回は、そのような名前が持つ意味、由来も含めて、「唐招提寺」を拝観する前にぜひチェックしておきたい「唐招提寺の歴史」をなるべく簡単にまとめていきたいと思います。

お寺のキーマン。「鑑真」さん

さて、唐招提寺を語る上で、まずチェックしておかねばならない人物がいます。

それは唐招提寺を創建した人物でもある「鑑真(がんじん)」さん。鑑真さんは688年から763年まで生き、主に「奈良時代」に活躍したお坊さんです。

そんな鑑真さんは、実は日本で生まれた方ではありません。鑑真さんは中国の「唐」の時代に、現在の「江蘇省」と呼ばれる地域、「揚子江」という川の近くで生まれました。
鑑真さんが日本にやってくるまで

鑑真さんは中国で仏教の「戒律」を伝え、研究する宗派である「律宗」のお坊さんとして経験を積み、一定の地位を築き上げていましたが、そんなとき、日本から長い航海を経てようやくたどり着いたお坊さん「栄叡」さんと「普照」さんに、「日本に来て仏教(律宗)の教えを伝えてほしい」とお願いされます。

もちろん、当時の「遣唐使」などが苦労して東シナ海を渡ったように、日中を行き来することは、船の転覆というリスクを常に背負った、まさに「命がけ」のものでした。

そんな中、当初は「弟子」を派遣しようとした鑑真さんですが、弟子が誰も日本に行こうとしなかったので、結局自らが日本に行くことを決心します。そうすると結局弟子たちも日本についてくることになり、鑑真一行は訪日を決意します。

ところが、ここからが大変なのです。なんといっても鑑真一行は、5回も渡航を失敗するのです。暴風雨に遭遇したり、鑑真がいなくなることを惜しむ人の密告で連れ戻されたり、鑑真さんはなかなか日本に行くことができません。743年から渡航を試みはじめた鑑真さんは、なんと10年経っても日本に行くことができなかったのです。

そして、その途中で、疲れがたたったのか、両眼を失明してしまう悲劇にも見舞われます。

しかし、6回目には、当局の目を潜り抜け、4隻の船のひとつに乗り込む形で、日本への渡航をようやく成功させます。それは初めての渡航から10年を過ぎた天平勝宝5年(754年)のことでした。

何度も失敗してもくじけることなく、日本のお坊さんの熱い想いに動かされ、鑑真さんはついに日本行きを成功させたのです。
日本での鑑真さんの業績

さて、日本についた鑑真さんは、仏教の戒律を授けるルールがしっかりと運用されていなかった当時の日本に「律宗」の教えを伝えるための仕事に取り組むことになります。

当時の孝謙天皇から仏教の戒律に関する事柄を一任されるなど深い信頼を得た鑑真さんは、まず、「東大寺」に拠点を置くことになります。

東大寺では現在も有名な「戒壇堂」を作り、そこで多数の人々に仏教の正式な戒律を授けました。またこの流れに乗じ、全国でも鑑真さんの影響によって戒律の制度がしっかりと整備されていくことになりました。

また、鑑真さんはお坊さんたちのみならず、広く民衆の暮らしにも関心を持ち、貧困などで苦しんでいる人々を助ける「悲田院」を生み出した存在としても知られています。

このように、多大な功績を生んだ鑑真さんですが、そのお仕事がひと段落ついたころに、「自分のお寺」として「唐招提寺」を創建することになっていくのです。
唐招提寺の創建 ~鑑真さんのお寺として~
創建と鑑真さんの死

矢継ぎ早に戒律に関する様々な「実務」をとりおこない、当時の仏教文化、社会制度に大きな影響をおよぼした鑑真さん。

その功績をねぎらってか、天平宝字3年(759年)にはかつて新田部親王(にいたべしんのう)と呼ばれる皇族が住んでいた土地を朝廷から与えられることになり、そこに鑑真さんが創建したお寺が「唐招提寺」でした。「唐招提寺」はあくまでも「鑑真さん」のお寺であり、元となるお寺をどこかから移転してきたものでもなければ、「藤原氏」などといった一族を守護する「氏寺」でもありませんでした。

つまり、唐招提寺は、興福寺や薬師寺、元興寺といったその他の「平城京」の大寺院のように、藤原京の「飛鳥時代」から元となるお寺があったわけではありません。その「歴史」は比較的新しい存在なのです。

 

鑑真さんは、日本における「律宗」の創始者として、唐招提寺を戒律を授け、仏道を研究する拠点にしようと考え、お寺の建設をはじめた訳ですが、あくまでも鑑真さんのお寺なので、いくら朝廷からも尊ばれているとはいえ、興福寺や東大寺ほどの巨大な財政的な裏付けがあったわけではありません。

また、鑑真さんは、唐招提寺を創建すると、5年も経たないうちにお亡くなりになってしまいました。当時ではかなりの長寿である80歳近くまで生きた鑑真さんですが、唐招提寺の「完成」を見ることはなかったのです。

「手づくり」で進んだお寺の整備

むしろ、唐招提寺は鑑真さんがなくなってから「整備」がますます本格化していくことになるのですが、その過程では現代風に言えば「民間」の力を活用してお寺(伽藍)の整備が進められていくことになります。

例えば、食堂(じきどう)と呼ばれる施設は、「藤原仲麻呂家」の寄進によって建立されたほか、羂索堂(けんさくどう)と呼ばれる施設は藤原清河家が建ててくれたものとされています。そして、現在も奈良時代の姿を留めていることで知られる「講堂」は、平城宮にあった施設である「東朝集殿」を移築した上でお寺に沿う形に改造したものであるとされています。なお、有名な「金堂」については、鑑真さんの死後、鑑真さんの弟子として中国から一緒に日本にやってきたお坊さんである「如宝」さんが造り上げたものとされています。

要するに、朝廷そのものから財政支援を受けるというよりは、関係の深い貴族たちの力を借りたり、建物をリサイクルするというコスト削減策を駆使しながら、「手づくり」で生み出されたお寺が「唐招提寺」であったのです。

お寺の施設全体がだいたい完成するまでには、約50年ほどの期間が掛かったとされています。

平安以降の唐招提寺

奈良時代の後半から整備が行われた唐招提寺。先ほど述べたように、その完成までには鑑真さんの死を経て、半世紀ほど掛かることになりました。

その間に時代は移り変わり、奈良の平城京は平安京へと遷都することになり、奈良のほとんどのお寺が奈良時代のうちにその姿をほぼ「完成形」に持っていった状況に対して、唐招提寺はその完成は平安時代に入ってからにずれ込むことになりました。

しかし、完成した後は、奈良のその他の寺院と同様、次第に衰退・荒廃が見られるようになっていきます。特に平安後期にはかなり衰退したともされ、興福寺の末寺となってしまったとも言われています。

一方、鎌倉時代に入ると、信仰の在り方に変化が見られ始めたことも影響し、唐招提寺はその勢力を盛り返しはじめます。

特に「覚盛(かくじょう)」さんと呼ばれるお坊さんは唐招提寺の「復興の祖」であるとか、鑑真が再び登場したともてはやされるほどの大活躍を見せ、崩壊しかかっていた戒律制度や、仏教研究の仕組みを立て直すことに成功するほか、荒廃していたお寺の施設も修理し、境内の整備を行いました。

現在でも、唐招提寺では「うちわまき」というイベントが行われますが、これは戒律を厳守した覚盛さんが、蚊を手で殺さずにうちわで追いかけたという逸話にちなむものとされています。

その後は、戦国時代の戦乱や、地震災害などで時折被害を受けますが、金堂や講堂といった主要建築は生き残ります。いずれにせよ、「南都焼き討ち」で興福寺や東大寺に見られたほどの被害を受けることは唐招提寺の歴史を通して一度もありませんでした。

また、江戸時代には奈良のその他の寺院が比較的荒廃するものもある中で、徳川幕府の保護を受ける形で比較的その勢力を維持することに成功します。特に元禄時代には丁寧な大修理が行われ、建物を現代にまで残す上で大きな役割を果たしました。

近代に入って以降は廃仏毀釈で規模を縮小することにはなりましたが、興福寺のような壊滅的被害を受けることはなくなんとかやり過ごし、その後は文化財としての価値が高く評価されるようになり、現在に至っています。

なお、近年では2000年から2009年にかけて「金堂」の大修理が行われ、その美しさのみならず修理を行う「建築技術」の面でも注目を集めました。