コンチワ!コンチワ!コンチワ!
本日1つ目の観光スポット!『急がば回れ』の発祥地!滋賀「瀬田の唐橋」に行って来ました”Mr.ゼットン”です。

今日はお盆の恒例行事、地元のツレとの男3人クルマ旅でした。今日の行き先は滋賀県。 大阪に居ながらもなかなか滋賀県を旅することはなかったのですが数日前よりヤマトタケルに興味が出たので思い切ってヤマトタケルを祀る建部大社に参拝をメインに、本家 鶴喜そば 本店 で美味しい蕎麦を食し、比叡山の麓に鎮座する大社。およそ2100年前、崇神天皇7年に創祀された、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮日吉大社に参拝し、三井寺力餅を食べ、レトロ感満載の容輝湯に入ることが出来ました。

当初の目的とは少し予定を変更しなければならなくなりましたが、充実した僕の知らない滋賀を旅してきました。

瀬田の唐橋

所在地: 〒520-2134 滋賀県大津市瀬田

 

瀬田唐橋は、滋賀県大津市瀬田-唐橋町の瀬田川に架かる橋である。全長223.7m(大橋約172m、小橋約52m)で、滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。

京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三大橋(日本三名橋・日本三古橋)の1つとされてきた。また、近江八景の1つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られる。1986年(昭和61年)8月10日の道の日には、旧・建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。

歴史と伝承

東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡るか南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。1889年(明治22年)まで、瀬田川に架かる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、交通の要衝であり、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」といわれた。唐橋を舞台として繰り広げられた壬申の乱、寿永の乱、承久の乱、建武の乱など、橋は昔から様ざまな戦乱に巡り合ってきた。そのため、古代より何度も焼き落されたとされるが、その度に当時の浅瀬の位置に橋が架けられた。
古代

古代の橋が架けられた年代は不詳であるが、神功皇后の時代にはすでにあったといわれる。201年(神功皇后摂政元年)、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田の渡りで自害したという(『日本書紀』巻第9 気長足姫尊 神功皇后)。

本格的には近江大津宮遷都のときに架橋されたとも考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王宮秀郷社・雲住寺辺りを東端としていた。瀬田川の浚渫事業により、1988年(昭和63年)、現在の橋より約80m南(下流)で橋脚の基礎が発見された。橋の幅は7-9m、長さ250mと推定される。この橋は当時の朝廷の威信をかけて架設したものとされ、滋賀県教育委員会と滋賀県文化財保護協会は当時の技術を知る上で有用としている。

672年(天武天皇元年)、壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ(『日本書紀』巻第28 天渟中原瀛真人天皇 天武天皇 上)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。ちなみに、大津市大江の御霊神社の主祭神は大友皇子である。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)では、764年(天平宝字8年)、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回りし、これを焼く。押勝は高島郡に走り、そして滅びた(『続日本紀』巻第25 淳仁天皇)。

今朝は8時ごろウチに集合して滋賀県へやってきました。

駐車場に車を止めて橋の麓を歩いてきました。

 

 

 

旅をすること・・・人と出会うこと・・・
歴史を知ること・・・は
その後自分自身に必ずおとずれる
正しい選択の為の訓練です。

美しいモノをより美しく観る為に・・・
敬愛する人をより尊敬できるように・・・
大切な時間をより大切にすごす為に・・・

そして人生をより感動できるように・・・

人は旅に出ます。

【 Life On The Road (ライフ オン ザ ロード)】