コンチワ!コンチワ!コンチワ!
京都に残る元伊勢伝承地「元伊勢内宮・皇大神社 – 天岩戸神社篇」に行って来ました非日常のレシピの管理人”Mr.ゼットン”です。

今日はゴールデンウィークの恒例行事、地元のツレ男3人と女1人のクルマ旅でした。今日の行き先は通称「近畿の五芒星」を巡り最後のポイント京都は福知山にある元伊勢内宮・皇大神社 – 内宮から、元伊勢内宮・皇大神社 – 外宮を巡り天岩戸神社を回って、かつふじ 宮津店ミップル で”とんかつ”を食べて、大移動して伊根の舟屋で遊覧船に乗ったり歩いて散策した後、宇川温泉-よし野の里で温泉を堪能し、楓々亭でラーメンを食べ堪能し、「近畿の五芒星」最後のポイントを巡り、僕の知らない京丹後を旅してきました。

皇大神社

所在地: 〒620-0323 京都府福知山市大江町内宮217


天岩戸(あまのいわと)とは、日本神話に登場する岩でできた洞窟です。

天戸、天岩屋、天岩屋戸ともいい、「岩」は「磐」あるいは「石」と書く場合もあるそうです。
太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台です。

誓約で身の潔白を証明した建速須佐之男命は、高天原に居座った。そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたりの乱暴を働いた。他の神は天照大神に苦情をいうが、天照大神は「考えがあってのことなのだ」とスサノヲをかばった。
しかし、天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭が陰部に刺さって死んでしまった。ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍が発生した。

そこで、八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。思金神の案により、さまざまな儀式をおこなった。常世の長鳴鳥を集めて鳴かせた。
鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡を作らせた。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせた。
天児屋命と太玉命を呼び、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。賢木を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。アメノコヤネが祝詞を唱え、天手力雄神が岩戸の脇に隠れて立った。
天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。

岩戸神楽ノ起顕(三代豊国)
これを聞いた天照大神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。
アメノウズメが「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と太玉命が天照大神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。
すぐにフトダマが注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。
八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。

天照大神

天照大神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に登場する神。
皇室の祖神で、日本人の総氏神ともされる。
『延喜式』では自然神として神社などに祀られた場合の「天照」は「あまてる」と称されている。
天岩戸の神隠れで有名であり、記紀によれば太陽を神格化した神であり
皇室の祖神(皇祖神)とされ神社としては伊勢神宮が特に有名。(ウィキペディア)

男神天照大神

記紀を注意深く読めば、天照大神には女神に似つかわしくない表現があります。
たとえば、天照大神が誕生する場面です。
イザナギが禊をしたとき、天照大神は月読命とスサノオとともに生まれます。
この3人の神を指して、イザナギ命は「三の貴の子」「三貴子」とよんでいます。

「貴子」とは、古代において、男性に使う言葉です。
女神である天照大神を指す言葉としては適当ではなく女性なら「子」ではなく「女」で「一貴子」ではなく、「一貴女、二貴子」と表現すべきなのです。
天照大御神は、イザナギから生まれた男神です。

記紀が編纂される紀元8世紀以前に成立した神社では日本書紀にある天照大神の別名である大日靈貴神 (オオヒルメノムチノカミ)大日孁尊(オオヒルメノミコト)をまつった所は1つもありません。

今でこそ大日孁貴神を祭神として掲げる神社はありますが古代においては皆無なのです。
女神・天照大神の痕跡は、全く見当たらないのです。
しかし、その一方で、「天照」の名前を冠した神社は多くあります。

『古事記』と『日本書紀』では女神とされている天照を「アマテル」と称し男神だとしているのです。

『先代旧事本紀大成経』でも、「天照(アマテル)」と読んでいます。

秦氏の長、聖徳太子(別名は秦河勝)が製作した『先代旧事本紀』は、記紀に続く第3の国史として
物部氏の歴史が記されている一書とされています。
偽書説が通っていますが、今は序文以外は偽作ではないとされます。
『先代旧事本紀大成経』は偽書とされていますが、『先代旧事本紀』と共通する内容で
らに多くの真理を含んでいて正しい内容も多いです。
江戸初期の伊勢外宮の神官の度会延経(1657年‐1714年)は、平安後期の漢学者、歌人であった
大江匡房(1041年‐1111年)の書いた『江家次第』という書物は朝廷の公事(くじ)や儀式などを
詳しく書いた中に、「匡房の仕えた73代堀河天皇の寛治4年(1087年)11月4日、伊勢に
奉幣使(ほうへいし)が立ち、天皇陛下の近侍である蔵人(くろうど)が伊勢大神宮へ
臨時に神宝をたてまつるにあたって、天照大神の御装束の内容が男帝の御装束である」
と書いてあります。

また、円空(1628年‐1695年)が彫刻した天照大神像は、男神として彫られていました。
そして、記紀の「天の岩戸」の神話にちなんだ京都の岩戸山にはそのご神像か飾られているのですが
天照大神は鏡と芍(しゃく)をたずさえた男神の姿なのです。

天照大神は男神です。

伊勢神宮について書かれた鎌倉時代の『通海参詣記(つうかいさんけいき)』には巫女が后(きさき)で、天照大神が夫と記されています。

 

男神の天照大神を記紀では「女性」にしました。

なぜなら、女性の天照大神が作られた時代の天皇家最初の女帝第33代推古天皇、古事記と日本書紀が奏上された第43代元明天皇と第44代元正天皇、さらに記紀編纂にかかわった第40代天武天皇の皇后でもある持統天皇は、すべて女性だからです。

持統天皇の軟弱な政権基盤を強固にするため女神の下で統合される日本の形を作ることにしました。
最高権力者である天皇陛下が女性であることがふさわしいとするため、日本神話の頂点に「女神・天照大神」を仕立て上げたのです。

記紀が編纂されたのは、紀元6世紀末~7世紀にかけてで、第40代天武天皇の命令によるものです。
天皇陛下が編纂するのですから、天皇陛下にとって都合の良いものばかりになります。
天武天皇にとって、自らの王権を正当化するのが目的でした。
しかし、天武天皇の存命中に、記紀は成立しません。
代わって、編纂を引き継いだのは天武天皇の皇后です。
彼女は、第41代持統天皇として即位し積極的に記紀編纂に関与します。

そして、紀元691年に大神神社と石上神宮の古文書を没収し、同時に16の豪族に系図をすべて提出させ、そのまま闇に葬りました。
その理由は、持統天皇と天武天皇との間にできた子供の草壁皇子を天皇陛下として即位させることでした。
本来なら天武天皇を継ぐのは、草壁皇子でしたが、天武天皇が崩御したときに草壁皇子は若すぎたので、天皇陛下として即位するには無理と判断したゆえ、中継ぎという意味で持統天皇が即位したのです。
ところが、事件が起きます。草壁皇子が即位する以前に死んでしまったのです。
困った持統天皇は、やむなく草壁皇子の息子の軽皇子を指名し、第42代文武天皇として即位させることにしました。

持統天皇からすれば文武天皇は孫です。
歴史的に、これは初めての祖母から孫への皇位継承です。
天照大神には持統天皇が投影されていて、持統天皇から孫への皇位継承は天子降臨ではなく「天孫降臨として神話のの原型となったと考えられます。
つまり、はるか神代の時代に祖母から孫への権威委譲があったなら前例となるので持統天皇は「天孫降臨神話」を創作したのです。

まず天照大神を女神としました。
神々の頂点に立つ天照大神が女神ならば、そのまま女帝である持統天皇を投影できます。
天照大神のオシホミミは、草壁皇子です。
本来ならそのまま降臨して地上を治めるはずでしたが、子供に任務を譲ります。
これは若くして死んだ草壁皇子と、その子供で代わって天皇に即位した軽皇子が投影されているというわけです。

こうして、天照大神が男神から女神「天子降臨」は「天孫降臨」へと改竄されました。

紀元712年に『古事記』、紀元720年には『日本書紀』が編纂され日本神話が構築され今日にいたっているのです。
持統天皇の改竄を、多くの人は犯罪だと思うでしょう。
しかし、それは表面的な判断です。
持統天皇には強力の藤原不比等(ふじわらのふひと 紀元659年‐720年)がいました。
藤原不比等は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけて、権力を持っていた政治家です。
不比等の名前は「ほかに比べることができる者がいないほど優れている」というような意味です。
天智天皇の寵臣、聖徳太子である秦河勝の息子である藤原鎌足の次男です。

藤原不比等こそは、記紀神話を最終的に完成させた黒幕です。

紀元701年、不比等は刑部親王とともに律令制度を定める「大宝律令」を完成させ708年に右大臣となってさらに権力が増しました。
そののち、長女の宮子を、第42代文武天皇に嫁がせ、第45代聖武天皇を産ませたのち次女の光明子を聖武天皇に嫁がせ、権力を増しました。
こうして不比等は、第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇と女帝のもと着実に実権を握り続け、717年には不比等大政権を確立しました。

記紀神話は、政治的背景によって形成されました。
この策は徹底していて、それまで伊勢神宮の祭祀全般にかかわり、神主職だった渡会氏を外宮の豊受大神だけの禰宜に降格させ、代わって中臣氏系の荒木田氏を伊勢神宮の皇大神宮(内宮)の禰宜に任命して、過去の知識を封印しました。
藤原不比等の父の藤原鎌足は、原始キリスト教の真理を深く理解していてた数少ない人です。
藤原不比等は、表向き主人公が男から女に子供が孫にと物語自体が大きく変わっても本質は変わらないようにしました。
そして、相応しい人が見れば本質は理解できるようにしたのです。

日本神話が後世にまで残るために仕組んだトリックはすべて解くために仕掛けたものです。
隠した目的は、末日に日本人が改宗するきっかけになるためだそうです。

 



旅をすること・・・人と出会うこと・・・
歴史を知ること・・・は
その後自分自身に必ずおとずれる
正しい選択の為の訓練です。

美しいモノをより美しく観る為に・・・
敬愛する人をより尊敬できるように・・・
大切な時間をより大切にすごす為に・・・

そして人生をより感動できるように・・・

人は旅に出ます。

【 Life On The Road (ライフ オン ザ ロード)】