「古事記を巡る旅」【随時更新】
垂仁天皇陵(宝来山古墳) 【奈良市尼辻西町】
西ノ京・唐招提寺近くにある前方後円墳。壕には多遅摩毛理(たじまもり)の墓と語り継がれる小島が浮かぶ。
橘寺 【高市郡明日香村橘】
多遅摩毛理(たじまもり)が持ち帰ったときじくのかくの木実(=橘)の種をこの場所に植えたことから、寺の名前が付けられたという。五重塔の心柱の礎石も橘の形をかたどったように見える。
大神神社 【桜井市三輪】(済)
もっとも古い神社の一つ。三輪山そのものを御神体とするため、本殿はなく拝殿だけがある。酒の神様としても信仰を集めている。
宇賀神社 【宇陀市菟田野】
付近は宇賀志という地名で、『古事記』に記された宇陀の穿(うかち)が古名とも言われています。また祭神は兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)とも言われています。
菟田の高城 【宇陀市菟田野】
神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと・神武天皇)が宇陀に進軍してきたとき、城を築いたところとされる日本最古の城跡と言われています。
磐之媛命陵 【奈良市佐紀町】
仁徳天皇皇后の石之日売命(いわのひめのみこと)の陵墓とされる。緑に被われた前方後円墳で、周囲には壕がある。初夏になると、カキツバタやスイレンが美しく壕を彩る。
宮山古墳 【御所市室】
「室の大墓」とも呼ばれる全長238メートルの巨大な前方後円墳で、石之日売命(いわのひめのみこと)の父、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の墓とされる。葛城の豪族の勢力をしのばせる。
脇本遺跡 【桜井市脇本】
大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと・雄略天皇)の宮、泊瀬朝倉宮跡とされる。弥生時代から飛鳥時代にかけての遺跡で、周辺からは建物の跡が発掘された。
八咫烏(やたがらす)神社 【宇陀市榛原】
神社でお祀りしている建角身命(たけつぬみのみこと)は、神倭伊波礼毘古命が日向(現在の宮崎県)から大和地方へ東征した物語の中で、神倭伊波礼毘古命の軍隊を熊野から大和に導き入れた、道案内役の八咫烏の化身と伝えられている。また、八咫烏神社は慶雲2年(705年)に祀り始められたとされ、大伴氏や八咫烏の子孫といわれる賀茂氏などの氏族が祭祀に大いに努力したとの伝承がある。近年は、スポーツの勝利や安全の神社として名を馳せ、境内にはヘディングする八咫烏像がある。
率川神社 【奈良市本子守町】
イスケヨリヒメを祀る率川神社。狭井河のほとりに咲き誇っていた笹ゆりにちなんで、6月に「ゆりまつり」が執り行われる。
若草山 【奈良市春日野町】
サホビコ、サホビメの名「サホ」。佐保川や佐保山など、今も奈良市北西部にその名が残ります。遙かなるサホビメの物語の舞台・奈良市周辺が眼下に広がる一押し眺望スポット。
檜原神社前 井寺池 川端康成揮毫の歌碑 【桜井市三輪】
ヤマトタケルノミコト終焉の地で歌われた国思歌は、時を越え、命のふるさとの地で川端康成氏揮毫による歌碑に刻まれた。歌碑のある池提からの二上山へと沈む夕日の美しさは格別。
佐紀古墳群 【奈良市山陵町、佐紀町、法華寺町】
佐紀丘陵の縁辺に営まれた古墳群。天皇・皇后の陵墓や陵墓参考地に治定された200mを越える大きな前方後円墳が点在する。オキナガタラシヒメノミコトの陵とされる神功皇后陵をはじめ、垂仁天皇の后・ヒバスヒメノミコトや仁徳天皇の后・イワノヒメノミコトの陵など『古事記』を彩る女性達の陵墓とされる古墳が多いことも特徴。
曽爾高原 【宇陀郡曽爾村】(済)
逃避行を続けた二人は宇陀の曽爾においてその最期を遂げた。屏風岩、鎧岳、兜岳など雄大な自然が時間をかけて生み出したすばらしい景観に包まれた曽爾。夏は新緑の草原、秋は一面のススキの絨毯など、四季を通じて曽爾高原は飽くことない自然の美しさを堪能できる。古の物語に彩られた美しき山里は、今も現代の恋人達を引き寄せる。
葛城一言主神社 【御所市森脇】
『古事記』に登場した一言で悪事も善事も言い放つ託宣の神・一言主大神。現代では「願いを一言だけきいてくださる」神様としてたくさんの参拝者が訪れ、地元では「いちごんさん」として親しまれている。
白山神社 【桜井市黒崎】
ワカタケルノミコト・雄略天皇の宮は、『古事記』では「長谷の朝倉宮」、埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣には「斯鬼(しき)の宮」とある。白山神社が宮候補地とされるのを始め、付近にはその候補地が点在する。
角刺神社 【葛城市忍海】
神社の祭神には飯豊青命(いいとよあおのみこと)が祀られている。境内の鏡池は、飯豊青命が毎朝、鏡代わりに使った池であると伝えられており、神社の北西の飯豊天皇陵は、飯豊青命が葬られた地としておまつりされている。
海柘榴市 【桜井市金屋】
海柘榴市は人々が物々交換する市道(いちじ)であり、後世の市場のおこりである。和名を「椿市」としるす。このあたり一帯は、古代の結婚の場となった「歌垣(うたがき)」が行なわれていた。春秋の季節には青年男女が集まってきて、必死に恋のかけあい歌を投げ合っていた。